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元JAL客室乗務員バフェットかおるが、50代からでも始められる高配当株投資をわかりやすく解説しています。

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足りない、と感じ続ける私に必要な自分だけの評価指標のものさし

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「そんなに重要じゃない評価指標を、無視する  むしろ人間の幸福っていうのは評価指標を吊り込みすぎたことによって、お金を使ったりすることで達成できるはずだっていう特に  根拠のない価値観を自分に  まず すり込んでしまうと、そのすり込んだ価値観と比べて今の自分は足りてないって思って…」

つまり、「人は外から与えられた“評価指標”(数字・成果・お金)を自分の中に刷り込みすぎる。

すると、その物差しと比べて『今の自分は足りない』と感じ続け、かえって不幸になる」。

私の今の目標は「1万再生・登録10万人・月100万円」。これはまさに成田さんが言う外から与えられた評価指標。再生数も登録者数も、YouTubeという外部が定義した数字。そして自分の中で二つの声がぶつかっています

ひとつは、チャンネルの根っこにある思想——「種銭は労働・成長は企業・老後は配当」、投機ではなく投資、何もなかった戦災孤児の父から生まれた、自力で生きる強さ。これは本来、他人と比べず、自分の物差しで着実にという価値観です。

「1万回再生だったらいいな・月100万円稼ぎたい」という新しく取り込んだ物差しは「特に根拠のない価値観を自分にすり込んで、今の自分は足りないと思わせる」装置になっています。

どうして自分は、今のままで十分、もう幸せと生きられないのか


なぜ自分は、今のままで十分だと、もう幸せだと思って生きられないんだろう。そう考えたとき、たどり着くのは「習慣」と「罪悪感」でした。

頑張らないとダメ。前に進まないとダメ。ずっとそう言い聞かせて生きてきました。憧れのCAになれたんだもの、頑張らないとダメ、年収800万円から400万円に下がったとしても、正社員なだけありがたいと思って頑張らないといけないと、誰かに強制されたわけじゃないのに いつの間にか自分の中にそういう物差しができていて、それと比べると、今の自分はいつも足りていないという不満がありました。

人は外から来た評価指標を、特に根拠もないまま自分の中にすり込んでしまう。すると、そのすり込んだ物差しと比べて「今の自分は足りていない」と思い続けてしまう、 これが自己肯定感が低くなる理由で、幸福になれない まだ自分はできると思う理由だと思っています

私の中の物差しは戦争で死んでいった人たちがいつも、背中にいて死にたくなかったのに、生きて、生きて、生きたかったのに、死ななければならなかった人たちが目に浮かびます。それと比べたら、五体満足で生きている自分が「申し訳ない」「生きているのがつらい」なんて思うこと自体、許されない気がする。だから「いっそ楽になりたい」と頭の片隅で感じても、すぐに打ち消す。それはダメだから、と。生きることを諦めないように、毎日頑張っている。いつも自分の気持ちを否定しています

でも、体は正直で。あちこちが痛くて、薬なしでは生きられない。ひとつ薬を飲むと、その副作用を抑えるために次の薬が増える。そのスパイラルの中で、頭は痛いし、体力もない。生きていること自体が、もう疲れる。起きた時から疲れているみたいな毎日の繰り返しで、必死に、立ち上がって生きている状態です

そのつらさを、忘れたい。忘れるには、時間を潰すしかない。没頭するくらい集中していると、痛みを一瞬だけ忘れられる。それができるのは、忙しいパートの時間と、毎日のライブ配信の準備や、動画の編集をしているとき。そのときだけは、痛みが後ろに下がってくれて、一瞬でも楽になれて人と繋がれると、心が初めて感情を取り戻し、良かった、生きててよかった、発信してよかったと思えます

それ以外の時間は、丸まって、苦しみと痛みに耐えながら、「良い母ではない自分」「理想的な母ではない自分」を責めることしかできない。

配信の準備や編集をしているとき、痛みを忘れられる——これは「逃避」じゃなくて、没頭できる、生きるに値する時間がちゃんとあるという証拠だと思っています。10万再生という外の物差しのためではなく、その「忘れられる時間」「集中できる時間」そのものに価値がある。数字はそのおまけですともいえます

体の痛みと薬のスパイラル、これは精神論ではどうにもならない部分。痛みが続いて薬が増え続けているなら、。「生きているのが疲れる」の何割かは、体の痛みが削っている可能性があり自分だけが悪いわけではないと思いたいけど、当然の報いだと思うこともあります

その上で、「乗り越える」を考えてみます。ただ、物差しの組み替え

「乗り越えようとしなくていい」

「足りない」と感じさせているのは現実じゃなくて、すり込まれた物差し

やるべきは自分を鼓舞して前に進むことではなく、物差しを下ろすこと。

具体的にすると、こういうことです。

ひとつ。「戦争で死んだ人と比べて、生きているのがつらいと思う自分は許されない」——この比較を、そもそも成立しない比較だと切り捨てる

他人の死と自分の痛みは別の軸の話で、比べた瞬間に自分を罰する装置にしかならない。「根拠のない価値観」の典型。比べないことは、亡くなった人への裏切りではありません。

ふたつ。「良い母でなければ」「頑張らないとダメ」も、外から来た物差し。その物差しを満たした先に幸福があるという前提自体が怪しい。満たしても次の「足りない」が来るだけだから。だから乗り越える=もっと頑張る、ではなく、その物差しを一個ずつ床に置いていく

みっつ。配信の準備と編集、忙しいパートのときだけ痛みを忘れられる「没頭」や「夢中」のような、数字に換算できない時間。10万再生のための作業としてやると物差しに戻ってしまうけれど、「これをやっている間だけ痛みが後ろに下がる」という理由でやるなら、それは立派な乗り越え方です。数字は、ついてきたらおまけ。やりがいにつながります

前に進むのをやめて、物差しを下ろし、痛みを忘れられる時間だけを頼りに、今日をやり過ごす。それで十分だ

「頑張らないとダメと生きてきた」と書いたこと、そして体の痛み。そこに重なるのは、強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルの言葉。彼は「人生に何を期待できるか」ではなく「人生が自分に何を期待しているか」へ問いを反転させた人でした。彼が言うには、苦しみは、それを引き受けた瞬間に、苦しみであることをやめる側面がある、と。つまりあなたが今、痛みを抱えながらそれでも編集をし、配信の準備をしている——その姿そのものに、すでに意味が宿っているという見方です。乗り越えてから意味が生まれるのではなく、耐えている今に意味がある

「生きているのがつらい、でも生きなければ」という葛藤には、夏目漱石も同じです。彼は神経衰弱と胃の病に生涯苦しんだ人でした。漱石が弟子に宛てたとされる「牛のように図々しく進め、あせってはいけない」という主旨の言葉があります。前に進めない自分を責めるのではなく、牛のような遅さでいい、止まらなければいい、という赦ゆるしの言葉です。「前に進まないとダメ」と自分を急かしてきたことへの、静かな反論になる

自分を責め続けてしまう人がいたら。マルクス・アウレリウスは『自省録じせいろく』で、自分自身に向けてこう書き残しました——朝、起き上がるのがつらいとき、「自分は人間としての務めを果たすために生まれてきたのだ」と思い出せ、と。彼はローマ皇帝でありながら、毎朝「今日も生きるのがつらい」と感じる普通の人間でした。完璧な皇帝でも、毎朝つらかった。それは「理想的な母ではない」と責めるその基準は、高すぎる基準なのかもしれません

マザー・テレサの言葉とされるものに、「神は、あなたに乗り越えられない試練を与えない、と言うけれど、私は時々、神が私をそこまで信頼しなければよかったのにと思う」という主旨のものがあります。これは強がりではなく、聖人とされる人でさえ「もうこんなに信頼されたくない、こんなに重いのは嫌だ」と弱音を吐いていたという記録です。つらいと感じることは、信仰や強さの欠如ではありません。


これらの言葉に共通しているのは、どれも痛みを抱えたまま生きた人たちの言葉だということです。痛みのない人が上から言う励ましではなく、自分も苦しみの底にいた人が、同じ底から差し出した手。だから届くから、丸まって自分を責めてしまう夜に、フランクルでもマルクス・アウレリウスでも、そうだったんだ。と楽になれたらいいなと思う。

⚠️ 【投資免責事項】
当ブログで紹介している投資情報はあくまでも参考情報であり、特定の銘柄・投資商品の購入・売却を推奨するものではありません。投資にはリスクが伴います。投資はご自身の判断と責任のもとで行ってください。

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