1985年8月12日、日本航空123便が墜落した日。運輸大臣は、山下徳夫さんでした。
この方について調べると、事故当日にひとつ、偶然とは言いにくい出来事が記録されています。山下大臣は事故の直前、墜落したのと同じ機体に乗っていました。
私は日本航空で約30年、国際線の客室乗務員をしていました。あの事故のあと会社がどうなっていったかを、中から見てきた者として、記録に残っていることを順番に書きます。
山下徳夫さんとは
| 生まれ | 1919年10月7日 |
| 運輸大臣 | 1984年11月1日〜1985年12月28日 |
| 内閣官房長官 | 1989年8月10日〜8月25日(16日間) |
| 厚生大臣 | 1991年11月5日〜1992年12月12日 |
| 政界引退 | 2000年6月2日 |
| 逝去 | 2014年1月1日(94歳) |
日航123便の事故は、運輸大臣としての在任中に起きています。
1985年8月12日、その日に起きていたこと
大臣は、墜落した機体に乗っていました
その日、山下大臣は福岡にいました。三光汽船が会社更生法の適用を申請した件への対応のため、急きょ東京へ戻ることになります。
乗ったのは日本航空366便。羽田に到着しました。そしてこの機体(JA8119)が、そのあと123便として大阪へ向かい、墜落しました。
同じ機体に、その日のうちに乗っていた。所管の大臣が、です。この事実は佐賀新聞などが報じています。
所管大臣として、陣頭指揮にあたりました
事故発生後、山下大臣は運輸行政の責任者として対応の先頭に立ちました。よく誤解されるのですが、この事故で引責辞任をしたわけではありません。大臣を退いたのは1985年12月28日で、これは内閣改造によるものです。
生還した女の子の搭乗券のコピーを、持ち歩いていた
あの事故で、4人の方が生還されました。山下さんは、そのうちの女の子の搭乗券のコピーを持ち歩き、知人に贈っていたと伝えられています。
この話をどう受け止めるかは、読む方によって違うと思います。私は、あの日のことを手放せなかった人なのだろう、と受け取りました。
1989年、官房長官を16日で辞めています
「山下徳夫」と調べると、客室乗務員に関する話が一緒に出てくることがあります。これは1989年の出来事です。
山下さんは1989年8月10日、海部内閣の官房長官に就任しました。その直後に女性問題が報じられ、8月25日、わずか16日で辞任しています。当時、大きく報じられた出来事でした。
あのとき、報道は客室乗務員のところにも来ました
報道のなかで、日本航空の客室乗務員の名前が取り沙汰され、記者が関係者の自宅を訪ねる騒ぎになったと伝えられています。
ここは、私がいちばん書いておきたいところです。報道に追いかけられた側は、ただの一社員です。名前を出して説明する立場にもなく、反論する場所もありません。ニュースが過ぎたあとも、職場に残るのはその人です。
いまも同じことは起きていると思います。名前の出ている人のまわりには、名前の出ない人がいます。そのことだけは、忘れないでいたいと思っています。
元客室乗務員として、思うこと
1985年の夏、私たちの会社で520人の方が亡くなりました。あの日から、日本航空という会社は変わっていきました。安全のためにできたルールも、経営のために削られていったものも、両方を現場で見てきました。
大臣が誰だったかを調べる方は、たぶん「あのとき、国はどう動いたのか」を知りたいのだと思います。記録に残っているのは、ここに書いたことまでです。書かれていないことについては、私は書かないことにしています。
まとめ
- 1985年8月12日、日航123便墜落事故のときの運輸大臣は山下徳夫さんでした(在任1984年11月1日〜1985年12月28日)
- 事故当日、山下大臣は同じ機体(JA8119)に日本航空366便として搭乗し、羽田に到着していました
- 事故での引責辞任はしていません。大臣を退いたのは内閣改造によるものです
- 1989年8月、海部内閣の官房長官に就任しましたが、女性問題が報じられ16日で辞任しました
※本記事は、公表されている経歴と、当時の報道にもとづいて書いています。報道の内容そのものの真偽について、私が確かめられる立場にはありません。


コメント