この記事は、日本航空(JAL)は、キャビンアテンダントの初代制服について説明しています。
この記事を読むと、JALの初代キャビンアテンダントの制服が1号から3号まであった理由が時代背景に基づいてわかります。
JALキャビンアテンダント初代制服、1号
特徴
シルバーグレーの色合いで、英国製のトロピカル生地を使用していて、襟があり、上着の左胸の外付けポケット上部にはJALの胸章が付いています。
スカート
膝下15cmで、横に小さなスリットが入っていておしゃれです。
帽子
帽子は制服と同じ色で合わせています。
設立時期
1951年10月
デザイナー
門田 稔さん
歴史的背景
1951年の日本
1951年は、日本が第二次世界大戦からの復興を進めていた時期で、サンフランシスコ講和条約が調印され(翌年発効)、日本は独立国としての地位を回復しましたが、依然としてアメリカとの安全保障体制のもとにありました。
英国製トロピカル生地
この時代、日本はまだ高度経済成長を迎える前であり、高品質な繊維や生地を自国で大量に生産する能力は限られていて、英国製のトロピカル生地を使用することは、当時の日本においては高級感と国際性を象徴する選択であったと言えます。
襟あり、胸章、帽子のデザイン
制服のデザインは、当時の社会的な価値観や期待に影響を受けており、襟があり、胸章が付いていることは、格式と正式さを重視する当時の日本社会に合ったデザインでした。
また、帽子が天井なしという点は、当時の女性の役割や働き方に対する考え方にも影響を受けている可能性があります。
DC-3型機「金星」号と披露・招待飛行
1951年10月に日本航空が設立された際、DC-3型機「金星」号で披露・招待飛行を行ったことは、日本が民間航空を再開し、国際社会に復帰しようとする象徴的な出来事で、戦後の日本がアメリカや他の西側諸国との関係を強化し、経済復興を目指す上で重要なステップであったと言えます。
以上のように、初代制服は当時の政治的、経済的背景に深く影響を受けながら、日本航空が国内外で展開するサービスの質を高め、ブランドイメージを築くための重要な要素でした。
JALキャビンアテンダント初代制服、2号
特徴
紺霜降りギャバジン地で襟があり、両袖に濃紺の一本線、3個の金属ボタン、左胸の切りポケット下部にウイングマーク、スカートは前に大きなスリットがあります。
帽子は天井付きで左前部に銀色の翼マークが輝いています。
時期
1951年 – 1954年
デザイナー
門田 稔さん
色
紺(エアフォースブルー)
JALキャビンアテンダント初代制服、3号
特徴
両袖にライトグレーの一本線、生地と同系色のボタン3個、左胸の切りポケット下部にウイングマーク、スカートは前にスリット、帽子は天井付きで左前部に銀の翼がついています。
時期
1953年~(設立時期: 1953年6月)
デザイナー
門田 稔さん
色
薄いブルーグレー
歴史的背景
1953年9月にDC-6B 1番機City of Tokyo号が羽田に到着したことを記念した制服です。
JALの初代制服が1号~3号まである理由
歴史的背景
1951年10月に日本航空(株)が設立され、DC-3型機「金星」号で披露・招待飛行を実施しました。
1代目の制服に1号から3号が存在する理由は、1号が夏服で2号が冬服、3号が1953年9月のDC-6B 1番機City of Tokyo号が羽田に到着したことを記念した制服して作られたからです。
特に初期の航空会社においては、多くの変更が短期間に行われていました。
季節に応じた変更
制服は夏用と冬用で異なり、初代(1号)制服は夏服でしたが、初代(2号)制服は冬服として導入されました。
サービス拡大
1951年から1954年にかけて、JALは国内線から国際線へとサービスを拡大しまし、制服もそれに合わせて変更されました。
デザインの試行錯誤
航空会社によっては、最初のうちはどのようなデザインが最も効果的かを試す期間があり、短期間で何度も微調整が加えられることがあります。
従業員のフィードバック
キャビンアテンダントや他のスタッフからのフィードバックに基づいて、機能性や快適性を高めるために制服が改良されることもしばしばあります。
最後に
初代の制服は、日本が経済成長を遂げる中での象徴であり、新たなスタートを切った航空会社が試行錯誤した結果であると言えるでしょう。
1954年2月には、初の国際線(東京=ウェーキ=ホノルル=サンフランシスコ)が開設されました。
日本の人々が頑張り抜いた生き様に敬意を表したいと思います。
画像出典:JAL HP
全日空(ANA)のキャビンアテンダント制服の歴史と評判について、時代の変化と共に進化するスタイルを紹介します。 (cabinattendant.blog)
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