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自己紹介します

今日は、自己紹介します。

自己紹介しろっていう声が最近になって宇宙からスペースシャトルっていうかクルードラゴンにのってうちまで届くようになったので、地球を守るためにも、このあたりで 自己紹介動画を出さないといけない格好になったのでお話します。

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自己紹介

画像①

私、今52歳で福岡県で生まれて育ったんですが 福岡市早良区っていうところなんですけど まぁ知ってる人はいるかと思うのですが 簡単に言うと田舎です、と。

私が住んでいたところは田んぼに囲まれていて、部屋の天井を見上げるといつもヤモリがいました、と 庭でヘビがカエルを食べているっていう日常だったので 西新や天神に行くのは、大都会へ行くくらいドキドキしてました、

一方で アジアの玄関として朝鮮半島や中国大陸に近いってことで経済も文化も栄えまくってますと、福岡空港は都心に近く地下鉄やバスが便利で とにかく美味しい食べ物がたくさんあります

私は父親が転勤族だったので引っ越しが多く日本中を巡って最終的に福岡に戻ってきたわけですけど、まぁ私に関しては 生まれつきですね 松田聖子と同じくらい ぶりっ子でかわいかったのだったので、案の定ですね どこにいっても いじめられていましたと で なかなかしんどい小学校時代を送っていまして、帰り道では石を投げられたり、教室では 机を離されて 教科書でバリアを作られたりして、あーーーかわいいって罪ねって思ってました

中学

中学にあがると もう完全に学級崩壊してるみたいなそういう中学校に通ってたんですが タバコを吸ってる生徒がいたり、その生徒をベロンベロンに酔っぱらっている親が迎えに来て叫んで帰っていくみたいなことがあってですね 早く抜け出したい と思っていました と。

で 私には赤白帽子トラウマというトラウマがあってですね 体育の赤白帽子を忘れた私のせいで クラス対抗のバレーボール大会で 優勝したのに、それが取り消しになったり、遠足の日に 赤白帽を忘れて、全員の帽子がそろうまで出発できないってなって 、家まで取りに帰るんですが 親が共働きで 家に入れず、泣きながら学校に戻って何発もビンタされて 全校生徒をドン引きさせるっていう とんでもない失態をしてきていたので、早くこの状況から抜け出したい一心で高校受験を 頑張りました

高校

福岡県では有名な修猷館高校というところに合格したんですけど、その時にですね、もうやりきった、と もう自分は人生、充分やりきったっていう感覚になって、まったく勉強をしなくなってしまいました

高校のスローガンみたいなものがあって それが何かというと質実剛健っていうスローガンなんですけど 要は強くたくましく生きろってことで 校則もなければ 勉強を強要されることもない、という遊びたい高校生にとっては 逆に悪魔みたいなスローガンだったので アホな私は 案の定ですね どんどん堕落していきました

高校時代の私はというとですね 小学校の時に ちやほやされた経験があったので、男の子と目が合うと「あの人、私のこと好きなんやないかいな」って過剰に意識したり、自転車に乗ってる時もだれか男の子が私のことかわいいって思って見てるんやないかいなって思って、笑顔を振りまいて自転車をこいでいました

自分で心の中だけで青春を爆発させれてました

高校3年間で勉強やった記憶がないので 当然 大学受験は全部落ちました

大学受験

落ちるまでの私っていうのはですね まぁ修猷館だし、勉強しなくてもどこかは うかるでしょって軽く考えて 今なら考えられないんですけど一流の早稲田 慶應 上智 学習院 青学と有名な大学ばかりを選んで受験し  全部落ちました

最後の青学の合格発表の掲示板を見た時の感覚って 今でも忘れられないんですけど、足が震えましてですね、近くにいる警備員さんんに「補欠はどこ書いありますか」ってすがるように聞いたんですね で補欠の掲示板まで ふらふら歩いていくわけです

そこにも自分の受験番号はないと でそこから記憶が薄れていくんですね

気付いた時には山の手線に乗っていて、何周も何周も回っているわけですよ。

座席に座って、変わっていく外の景色を眺めながら、涙が止まらないんですね 鼻水も涙も垂れ流しで、周りがドン引きしているのがわかっているんですけど もう自分ではコントロールできないっていうか、もう、これからどうしようって お先まっくらや って人生が終わった位のレベル感で 泣いてるッて感じでですね 多分 牛が出荷されるときに流す涙と同じ涙だと思うんです もうすぐ死にますって涙です で合格できる大学がないってわかってからですね 親が激怒しましてですね 浪人はさせん、と怒鳴るので 慌てて二次募集を探しました

聞いたことない短大ばかり10個くらい探し出しましたと。でその時ツライのはですね、私以外の友だちはどんどん大学に合格していくわけです、と。第一志望の九大には落ちたけ早稲田は受かったとか、周りは騒いでいるわけです、と。で私が全部落ちたことを知らない人はですね平気で「聞いて聞いて、どこどこうかったの、東京に行ける」とかいってくるんで、「あ、おめでとう、」って死んだ魚のような目でいうんです、で 後から私の状況を知ったその友だちがですね「ごめんね、全部落ちたって知らなくってごめんね」って謝ってくるわけです、と。そんな傷に塩を塗るような痛みを味わいながら、周りが自由になっていく姿を見ながら1人で勉強してました、と。で、そのと後は二次募集をうけるために上京しているので、卒業式にも出られません

挫折

で、当たり前なんですけど友達から なんかこう距離を置かれるというか、掛ける言葉がないみたいな 勝ち組と負け組に分かれる構図を始めて知ったっていう、努力してないから当たり前なんですけど まぁ一丁前に死ぬほど落ち込むと で、そんな落ち込んでいる時にテレビで 森高千里さんが17才を歌ってると、同じくらいの年齢の人がカメラのフラッシュに囲まれて働いていて自分の力で稼いでる、と。かたや親に 飛行機代やホテル代を払わせて 受験料も払わせて 大学に合格できないクズ野郎と 一方で同じくらいの年にもかかわらず国民的アイドルがいてですね カメラのフラッシュ前に囲まれている人と比べて、自分が情けないと そのテレビに映っている 森高千里さんを見てまあ本当に 心臓を雑巾みたいに絞られてるような感覚があってですね いつか私も成功してやる、と 東京に行って成功してやるぞっていう で、成功するってなんだって話なんですけど 私の中でそれはスチュワーデスになることだったんですね

小さい頃から憧れてたスチュワーデスになるってことが私にとっての成功だ、と思ってたんですね で、まだ間に合うから元気だそうと 短大さえ出ていれば 受験はできるんで いい大学に行けなくて 親には悪いんですけど、仕送りをもらいながら2年間東京で頑張るってことになってですね

短大

短大のときはですね、とにかくスチュワーデスを目指して頑張るってわけで その2年間は英会話に通ったり、面接の練習に通ったり OG訪問などやってました、とで無事2年生の8月にJALに合格しました

就職後

合格した私たちは最初に会議室に集められたんですね、で姿勢を正して待っていたら なんか偉そうな男の人が入ってきて 入社までに この本を買って読んでおけと 10冊くらい本を紹介されたんですね

その本っていうのは幸田文さんとか 明治生まれの女性の作家が多くてですね つまり教養があり細かな気配りができる女性になりなさいって言いたいってことで 幸田文の「おとうと」や「しつけ帳」とかがありました

で 昔の人の精神論みたいな話と、一緒に、英語の問題集を渡されたんです、入社して訓練のときにテストをするから全部覚えるまで何回もやりなさいって言われてですね つまり この本を読んで英語の問題集をやっておかないと訓練で痛い目にあいますよ ていうことで、その後、400人くらいいた同年入社の人が、訓練に入る日程によってクラス分けされました

要は訓練に入る日によって入社日もみんな違ってくるって話で 私は一番最後の9月入社になりました、と、で4月から9月まで半年間も何しようってことになるんですけど、他の人は海外に留学する人がいたり、地上研修に先に入って働き始めてる人もいるというのに、私は実家にかえってですね、ボーッと過ごしていたわけです

9月になる前にですね、会社から電話がかかってきて、宿題を提出していないの、あなただけなんですけどって注意されるわけですね、え、とそういえば本も読んでないし、英語の問題集もやってないと思い出して、背筋が凍りました とマンモスも凍り始めた時こんなかんじかなって思うくらい寒気がしました

電話の向こうの女性が「すぐに提出しないと入社をとりけしますよ」って言うんで、もう慌てて、形だけ整えて、提出して 会社からも親からも無茶苦茶怒られました

地上研修

入社後は訓練が開始するまで 地上研修といってグランドスタッフと同じ仕事をするわけですけど、そこでは早番遅番があってですね、朝が苦手な私は、よく寝坊してパジャマのまま成田空港に駆けつけたこともあります、と でようやく訓練が始まるんですけど、最初の英語のテストでは、クラスで1人だけ落第点をとりました

なんでかっていうと みんなあの問題集を必死でやっていたのに、私は答えを丸写しして提出してたんで 実力がついてなかったってことで、再びマンモス化しました

訓練

訓練が始まると訓練生は あれをやれだとか これをやれだとか そういう意味不明な 暗黙のしきたりが1億個くらいたくさんあるんです

まず、訓練生はエレベーターを使ってはいけないっていうことで 教室がある7階の部屋に行くのも ヒールを履いた足で 上がったり降りたりして、靴擦れが痛くて脳天ちぎれそうになるくらい血まみれになります

さらに上下関係が厳しいので こっちが気づいてなくても挨拶しなかったら死亡ってわけで とにかく 挨拶には 厳しくて 例えば新人が先輩を見つけると「おはようございます!とか「こんにちは」みたいな感じで オペレーションセンターだけでなく空港とか電車の中で 先輩を見つけると挨拶してました

たとえ100メートル先に先輩がいて 先輩が気づいてなかったとしても100メートル 先の先輩が気づくような感じで 全力で挨拶をしないといけないと思ってしまうくらい 見えないプレッシャーが強くて 全力で挨拶します と 逆に すぐ目の前にいる先輩に対しても 鼓膜が破れるレベルで大声で挨拶してました と で先輩が「びっくりした 声がおおきすぎる 」と驚いても いやいやいや それくらいのプレッシャーをこっちは感じてますってわけで で 逆に先輩がこっちに気づいてて こっちが気付いてないという場合で この場合は一発アウトで どうなるかというと あの子生意気 挨拶しなかったレッテルを貼られるので 常に24時間ですね 先輩がいるかどうかっていうのはもうキョロっキョロしながら生活すると

キリン

イメージとしてですね 右目で右半分のシェアをみる 要は先輩がいるか見ます と で左目で左のシェアをぼんやり見るみたいな で 3秒に1回振り返るみたいな感じです  なので常に360度どこに先輩がいるのかっていうのは 視野を広く持たなきゃいけないんで 多分JALの訓練部出身者の人って目が横についているキリンより視野が広いと思うんですけど で イメージとして そのぼんやり見ている視界の中で 基本的には紺色の制服を着ているので 紺色の物体が視野の中に入った段階で挨拶っていうのが安心というか 確実な方法で とにかく視野の中で紺色ものが見えてきたら挨拶する、と、だから今でも動いてる紺色のもの、警察官とかヤクルトスワローズのユニフォームを見ると挨拶したくなります

オフの日

やっかいなのがオフの日です、と私服になって髪の毛をおろすと もう見分けがつかないんですね でも先輩を見逃すとヤバいとって もうこれどうするかというと 乱れ打ちですね もうそれらしいクルーっぽい人とか黒のストッキングを履いてる人を見つけると とにかく挨拶すると 基本的には だいたい外れているのでまぁ一般の人にとっては キモいって感じで ドン引きしてるんですけど もうそんなこと どうでもよくて こっちは命かかってるんで手当たりしだいなりふり構わず それらしいシルエットが見えれば なりふり構わず大声で挨拶すると そういうOJT生活を私は送っていました

転職活動

3年とか5年とか7年目にですね 結婚とか転職とかで周りが辞めていくと で、そうなってくるとですね 自分は接客しかしたことがないぞって不安になってくるんですね

パソコンを使ってカチャカチャっやるような仕事はできないやんって ずっと接客だけやってるって人間として 甘いなって思い出したんですね 7年目っていっても27才なわけで 転職できる年齢だったんですけど、パソコン教室でExcelが全然わからんってなって諦めました

次は15年目の35才、転職できるギリギリの年齢になって転職活動をしたら、子持ちでことで落とされまくって、諦めました、でも30代なら 言う手もJALだぞ!と日本のフッラグキャリアの日本航空だぞと イキってたんです なんなら 何にでもなれるって 完全に転職を舐め腐ってたんですけど 転職活動では 年を重ねれば重ねるほど難しくなり、毎回  K1の試合前の控室みたいな 首取ったるぞみたいな感じで 頑張ったんですけど、世の中は甘くなかったって話で もうこれは会社にしがみつくしかないと

ゴリゴリゴリに会社にしがみついて ぶら下がっても落ちないぞと決めたわけですと

起業

で JALでは副業がOKだったので、49才で起業して ブログから始めました

Twitter上では お前、ハッタリだな ニセ者だなと 責められ 結局 期待外れなことしかできなくって ブログはうまくいきませんでした と 悔しくて次はYouTubeだ、とアニメーション動画を作って流しました うまくいきませんでした

で ナイアガラの滝の上からダイブするくらいの勇気を出して 顔出ししました

でも友だちも家族も誰も気づきません、と なーんだ、と 世の中って広いんだなー、大きいんだなーと驚きました。

元JALをネタに顔出ししても誰も気づかないし、指摘もされない、と なーんだ、と ほっとしました

会社員だとフライトの前の日に お酒を飲んだってことで新聞にものるしテレビでニュースにもなるパイロットを見てきたから、責任感を背負ってたわけですけど、

回想シーン(公園)

肩書がないってこんなにも 人から相手にされないし、自由なんだ、と気づいてしまったわけなんです、と で コメント欄でよく離婚したんですか?とか聞かれるんですけど、それはまた別の動画をとるんで それで観ていただければな というふうに思います

まぁちょっと長々と自分の話をしちゃったんですけど

結論 大したことなくて 別に東大行ったわけでもないし 元JALってだけで ぽっと出てこれただけだし 会社では、褒められることなんて ほとんどなくて、大した成績を残したわけでもないです、と

ただ今やっていることに関しては命がけでやってますし 一生懸命やってきた そこの自負があるので 泥水すすってきたんで これからも泥水をすすっていくと思うんですけど まあ

この生きざまを 私が死んでいく姿まで 見ていただければな と思っています こからも応援いただければ嬉しいです

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